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そうほんざん いおぶさん ねごろじ ちしゃくいん五百仏山 根来寺 智積院 (総本山 智積院 / 真言宗智山派)

五百仏山 根来寺 智積院 (総本山 智積院 / 真言宗智山派)の特色

 弘法大師空海が高野山でご入定されてからおよそ260年たって、興教大師覚鑁が高野山に大伝法院を建て、真言宗教学の振興に活躍されました。それゆえに興教大師は「中興の祖」とあおがれています。

 保延6年(1140)に、修行の場を高野山から、同じ和歌山県内の根来山へと移し、ここを根本道場としました。新たな道場建設の槌音の響く中、2年後の康治2年(1143)12月12日、興教大師覚鑁は、多くの弟子が見守る中、49才の生涯を閉じられました。

 鎌倉時代の中頃に、頼瑜僧正が出て、大伝法院を高野山から根来山へ移しました。 これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。しかし、巨大な勢力をもつに至ったため、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。

 その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を高野山に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を京都東山にしるしました。 そして慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が夭折した棄丸(すてまる)の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。再興された智積院の正式の名称は、「五百仏頂山(いおぶっちょうさん)根来寺智積院」といいます。

 こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出しました。

 やがて明治33年(1900)に智積院を中心に活動していた全国の約3000の寺院が結集し、智積院を総本山と定めました。

基本情報

宗派名 真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)
本山 総本山 智積院(そうほんざん ちしゃくいん)
別称(正式名称) 五百仏山 根来寺 智積院(そうほんざん いおぶさん ねごろじ ちしゃくいん)
問い合わせ先 〒605-0951 京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964
TEL 075-541-5361 
http://www.chisan.or.jp/
代表 真言宗智山派宗務庁
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