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全仏からのお知らせ

現下、国内外の情勢が大きく移り変わる中で、宗教がらみの戦争や大規模テロの勃発が相次ぎ、国内では少子高齢化や核家族化が進み人心の荒廃など様々な問題が山積しております。

こうした問題に対して、各種声明・意見書・要望書を提出及び発表しております。

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加盟団体からのお知らせ

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加盟団体へのお知らせ

本会の活動を全国のご寺院・所属団体の皆様に広報するため、加盟団体で発行している各機関誌等へ本会記事『全仏だより』の掲載にご協力頂いております。
各団体より要望がございました、過去の『全仏だより』、また最新の『全仏だより』を掲載をさせて頂きます。

また、今後はホームページ上でよりタイムリーなお知らせの掲載も予定しております。

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大会・会議・記念事業開催のお知らせ

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過去に開催した大会・会議・記念事業の報告

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イベント情報

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東北地方太平洋沖地震及び長野県北部で発生した地震の被災者の皆様へ

2011年3月13日 声明・談話・要望書  

東北地方太平洋沖地震及び長野県北部で発生した地震の被災者の皆様へ  このたびの大地震とそれに続く津波により被災を受けられたすべての皆様に、心よりお見舞い申し上げます。  また、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、深い悲しみにあるご家族や関係者の皆様に衷心よりお悔やみ申し上げます。  被災地では、未だ安否不明の方が多数おられます。その方々がご無事であることと、一刻も早く再会できることを心より願っております。また、負傷された方々など困難な状況にある被災者の皆様に思いを寄せてまいります。  被災地での救助、支援に当たられる関係者の皆様に対して、心から応援申し上げ、加盟団体と協力し、全力を挙げて復興に向けた支援を行ってまいります。 平成23年3月13日 全日本仏教会  会長 河野 太通
朝鮮半島出身の旧民間徴用者等の遺骨の早期返還を求める要望について

2011年1月21日 声明・談話・要望書  

私たちは一日も早いご遺骨の返還を願ってます。  日本国内では戦前・戦中から朝鮮半島から徴用されて、日本で亡くなられた民間人の方々が沢山おられます。また、その方々のご遺骨を預かっている寺院も沢山おられます。  平成16年12月に開催された日韓首脳会議(小泉純一郎首相と盧武鉉大統領)において、朝鮮半島の旧民間徴用者等の遺骨返還に向けた話合いがなされ、その後政府から全日本仏教会に対して、全国の寺院が預かっている遺骨に関する情報提供の協力要請がありました。  全日本仏教会は加盟団体に対してこの件についてお願いし、各加盟団体は傘下の全国寺院に協力を求めて遺骨に関する実地調査が始まりました。分かった情報は取りまとめて、今まで9回にわたり政府に情報を提出しております。  しかし、預かっているご遺骨は未だに1体も返還されません。東京目黒にある祐天寺に保管されていたご遺骨(軍人・軍属)は、平成22年まで3回に亘って返還されているのに、何故民間人のご遺骨は返還が始まらないのでしょうか?  本会は過去に数回、政府の担当官に質問をしましたが、外交上の問題ということで、納得できる回答を得られておりません。  戦後65年以上が経過して、朝鮮半島のご遺族や日本国内でご遺骨を預かっておられる寺院の方々の高齢化によって、この問題について記憶が薄れ、次の世代に継承しにくく、このままの状態が続くと取り返しがつかないことになります。  本会は2月10日に各加盟団体の担当者が集う「人権問題連絡協議会」開催に先立ち、政府の各担当省に対して要望書を提出しました。  政府から依頼されたこの遺骨返還事業を「人とのつながり」を大事に育み、早くご遺族の元にお返ししたく、ご覧頂いている皆様のご理解を戴ければ幸いです。 合 掌 提出した要望書はこちら(PDFファイル)
「首相及び閣僚の靖国神社公式参拝について(中止の要請文)」提出について

2010年8月11日 声明・談話・要望書  

標記の件に関しまして、本会は8月10日午後4時に、下記宛てに本会理事長名の要請書 (別紙)を提出いたしました。戸松義晴事務総長が福山哲郎内閣官房副長官を通じ菅直人内閣総理大臣へ手交いたしました。  本会及び加盟団体は、仏教を通じて世界の国々との交流と相互理解をこれまで深めてまいりました。この度の中止要請文は、靖国問題を日本と中国・韓国などアジア諸国との政治・外交上の問題として捉えて提出したものではありません。  本会はあくまでも「信教の自由」と「政教分離の原則」を堅持すべきという理由から中止要請文を提出いたしました。 同日午前の閣議後の記者会見において、首相及び閣僚が靖国神社公式参拝を行わない、との発表がありました。本会は、永年(本年33回目)に渡る要請文の提出の中、このたび菅首相及び閣僚が本会の要請に沿った決断をされた事に感謝の意を表します。  また、同日閣議決定された「首相談話」に「朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を今後とも誠実に実施していきます。」との一文が入りました。  本会は、小泉純一郎元総理大臣が当時行われた日韓首脳会談にもとづき、日本政府より依頼されたご遺骨の返還問題と取り組んでまいりました。本会及び各加 盟団体が広報・調査研究の経費を負担し、全国各地の寺院が調査に協力した成果が今後より生かされて、速やかに遺族の元へご遺骨が返還される事を願っており ます。 福山哲郎内閣官房副長官(左)へ戸松義晴事務総長(右)が要請文を手交 首相及び閣僚の靖国神社公式参拝について  私たち仏教徒は、釈尊の御教え「いのちの尊重・慈悲の精神」にもとづき、争いのない世界を目指して活動してまいりました。 本会は、自由民主党政権時より、首相及び閣僚の「靖国神社公式参拝」に対して、再三にわたり反対の意志を表明してまいりました。  菅 直人首相におかれましては、さる六月一五日の参議院本会議において、靖国神社公式参拝されない旨、明言されました。本会はこのことを高く評価するものであります。  靖国神社は、特定の基準をもって合祀の対象とした戦没者を神霊として祀る神社であり、純然たる宗教施設であることは明白であります。  拠って、一宗教団体である靖国神社に首相及び閣僚が公式参拝することは、どのような形式をとりましても、憲法に定める「信教の自由・政教分離」の原則に違反することは疑いの余地がございません。  最高裁判所は、靖国神社等への公金支出が、金額の多寡を問わず憲法違反に当たるという、明確な判断を示しております。  私たちは、戦後六五年のあいだ日本国民が守り育ててきたこれらの憲法の規定こそが、今日の日本の平和と繁栄の礎となっていることを、改めて確認し伝えていきたいと思います。  戦没者の追悼は、国家が特定の宗教に関わって行うべきものではなく、各ご遺族がそれぞれに真実と仰ぐ宗教によってなされるべきものであることは、当然のことであります。  以上の理由から本会は、現閣僚に対して靖国神社への公式参拝をされないよう、強く要請いたすものであります。 二〇一〇年八月一〇日 財団法人 全日本仏教会 理事長 有 田 惠 宗 内閣総理大臣 菅   直 人 殿
宮崎県口蹄疫感染の被害にあわれた皆様へのお見舞い

2010年6月25日 声明・談話・要望書  

宮崎県口蹄疫感染の被害にあわれた皆様へのお見舞い  宮崎県において口蹄疫感染により甚大な被害が発生しております。口蹄疫被害にあわれた畜産農家の皆様並びに関係者の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。  この度の口蹄疫被害に関しまして全日本仏教会では、加盟する各宗派・都道府県仏教会・仏教団体より寄せられた「救援基金」より、100万円を24日に清 水宗諦 宮崎県仏教連合会会長を通じて、宮崎県庁福祉保険部 田原新一 次長に寄託いたしました。今後も様々な支援の方途を検討の上、救援活動に協力いたしてまいります。  食の安全と安心に対する一般消費者の関心が高揚している中、風評により宮崎県並びに畜産業へのイメージが害されることがなきよう祈念いたします。  どうか、一日も早く口蹄疫被害が終息し、宮崎県内の畜産農家の皆様並びに関係者の皆様が平穏な、日々の生活を送れるよう心より願っております。 平成22年 6月25日 財団法人 全日本仏教会 理事長  有 田 惠 宗 ニュースリリースの一覧へ戻る
ダボス会議にて松長有慶会長が出席及び提言

2010年1月30日 声明・談話・要望書  

 ダボス(スイス東部)で行われた世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に松長有慶会長の提言がメディアを通じて公開されました。以下にその全文を掲載させて頂きます。 日本仏教からの提言 財団法人 全日本仏教会 会長 松長有慶  21世紀は混迷の時代である。前世紀の科学技術文明の驚異的な発展によって、人々は未曾有の物質的な繁栄を享受しながらも、精神的な痛みを抱えながら生きている。  われわれの周辺を見渡してみても、自己主張が突出し、他人の痛みには鈍感で、地域社会の連帯は希薄化し、凶悪犯罪が日常化する異常な社会が現実化しよう としている。世界全体を見れば、先進諸国の経済的な発展の蔭で、開発途上国の人々との間に貧富の差が急激に増大し、地球環境が劣悪化し、資源が枯渇し、民 族紛争、宗教間の対立抗争が常態化する憂うべき事態が現在進行しつつある。  社会的にも、個人の内面においても、八方ふさがりの閉鎖状態にあって、われわれは今まで自己が持ち続けてきた固定した人生観を冷静に反省して、改めるべき点があれば、率直に生き方を転換させて、事態の根本的な改善を図る必要があろう。  そのために、近代人が比較的等閑視してきた東洋の文化、とくに仏教の文化の中に、現代社会の病根に有効に作用する良薬が少なからず残されていることに、私は注目したい。  大乗仏教を奉ずる日本の仏教徒が、現代社会の危機に対して有効と思われる提言を要約すれば、1.生きとし生ける者の相互の関連性を認める全体的思考、2.多元的な価値観、3.生かせていただいている意識から社会奉仕活動へ、これら3点に集約されるであろう。 1.生きとし生ける者の相互の関連性を認める全体的(wholistic)思考   日本仏教には、人間中心、とくに自己中心的な視点を転換して、無限の宇宙的な視野の下に、人間だけではなく、動物、植物などあらゆる生物の相互のつながりを示す「一切衆生」という思想があり、日本の仏教徒の人生観の根底に横たわっている。  大乗仏教では、一切衆生はすべて仏になる可能性を持っていると説く。人間だけではなく、獣も鳥も魚も、虫けらに至るまで、あらゆるいのちあるものは、仏になりうるという思想は、人間と神との間に明確な一線を引く一神教の世界観とは異なる。  日本仏教では、山や川、草や樹木もまた本質的には、仏であると説く。それは、生きものだけではなく、山や川、風や石ころなどの無生物まで、神として崇敬してきた民俗信仰を仏教が摂取し、仏教の教理によって裏づけを与えたものである。  近代思想は自我を中心として、自と他を明確に区別するところから出発した。それは物事を対象化して捉え、近代の科学技術文明を発達させる基盤を作り上げ た。だが一面において自と他、物と心、人間と自然などの間にあった靭帯を切断し、それぞれを独立の存在とみなす考えが常識化することとなった。  しかし最近の人文科学や自然科学の研究の成果によると、他者から完全に切り離された自己は存在しないし、物質と精神をまったく別個の存在とみなすことは 困難となった。また人間だけが動植物や自然界を支配し、それらを隷属化する権利を持つものではなく、それらの間には相互に関連し、補完しあう共存の関係を 想定せざるを得なくなった。  日本仏教の考えからすれば、自と他、個と全体、物と心というように、一般に対立的に考えられている存在は、もとより一体である。ものごとを分析的により 分け、細分化することによって、ものの本質は見えてこない。むしろ対立的な思考を捨てて、全体的に把握することによって、ものの真実の姿が現われてくると 見る。  仏教は自我を中心として対立的に世界を見る近代思想から、宇宙的な視座の下に、全体的、相互関連的に世界を見る立場へと、視点の百八十度の転換を提案している。  分析的な思考法とか、物心二元論的な思考は近代の科学技術文明の進歩を支えてきたが、さまざまなひずみを現代社会に露呈することとなった。すべての存在 に、いのちを認め、相互の関連性を重視する日本仏教の総合的で、生命論的な観点は、人間疎外とか環境破壊といった現代社会が解決を迫られている問題に対し て、有効な示唆を与えるであろう。 2 多元的な価値観  近代の科学技術文明の驚異的な進歩の基盤には、一元的な価値観があったことは疑い得ない。しかしながら人間社会をすべて一元的な価値観によって統合する 思想の矛盾点も、20世紀後半になって明確になってきた。いわゆる先進文明だけが唯一絶対の価値を持つものではなく、地球上のあらゆる地域に存在する未開 の文化も、それぞれ独自の価値を持つことに人々は気づいた。  このような点に於いて、インドや中国、あるいは日本などの東洋の文化は多元的な価値観に基づいて展開してきたといえる。日本仏教においても、6世紀の始 め、その伝来当初から、仏と日本人がそれまで信仰してきた民族神との融合が図られてきた。日本の民衆の間では、外国から渡来した仏と、民族信仰の神々が排 除しあうことなく、互いに影響を与えあって共存してきた歴史を持っている。現在でも日本人の間では、同じ屋根の下で仏壇と神棚がともに祀られ、祈りが捧げ られている家庭が少なくない。  異なった文化を否定することなく、その存在価値を認め、自己の組織の中に取り込み共存する原理は、日本仏教の中でも、仏教の曼荼羅の中に具体的に表現されている。  曼荼羅とは仏とか、それに至る修行過程にある菩薩、さらにはもともとインドで、バラモン教で祭られる神や、ヒンヅー教で信仰されていた神を取り入れた明王や天部の神々を集約して画いた絵図である。  曼荼羅には異教徒の神々が少なからず取り入れられているが、それらは無秩序に寄せ集められたものではない。その中では、大乗仏教の中では有名な菩薩た ち、あるいは民族信仰の神々が、民衆が信じている神々の性格別に、いくつかのグループに分け、配置されている。知的な神、情け深い神、勇気のある神、エネ ルギーに満ちた実行力に富む神等々、それぞれのグループに分けられて配置されている。たとえ異教徒たちの崇拝する神であっても、それぞれの長所を認め、本 来の個性を持ったままに、仏教の仏に変えてしまう。  しかしながら個性を持つということは、100%完全ではないということである。個性は長所と短所を二つながら持っている。仏教では短所のみを取り上げ、 その欠点を非難することなく、それと表裏の関係にある長所だけに眼を向け、その長所を持つために、仏や菩薩として仏教のpantheonに偏入してしまう 包容性を持っている。  そこには排除とか否定の論理は認められない。それは一元的な価値観によって、善と悪、あるいはカオスとコスモスとを画然と区別して、一方だけを尊重する 思想ではない。無数の価値基準を用意して、いずれかに当てはまるものは、すべて取り入れていこうとする東洋文化の基本的な姿勢を、曼荼羅の思想の中に見出 すことが出来る。  以上のような仏教の世界観や曼荼羅の思想は、対立抗争が渦巻き、精神的な混迷の度を益々深めていく現代社会において、異文化との対話、生活文化の新しい指導原理を求める場合、かけがえのない重要性を持つに違いない。 3.生かせていただいている意識から 社会奉仕活動へ  日本仏教の歴史の中で、仏教者が社会に積極的に働きかけている事例は数多くある。具体例を列挙する紙幅を持たないが、日本における貧民救済などの社会福 祉活動は、6世紀に仏教が伝来した初期から始まる。それは大乗仏教の利他の精神の具体化とみられる。病院、施薬院の創設、橋を架け、池を掘り、道路を開く などの公共事業、無料宿泊所の設置、孤児救済活動を始め、13世紀には、仏教の戒律復興運動の従事した僧侶たちによって、各種の貧民救済の福祉事業が積極 的に行われ目覚しい成果を挙げてきた。その精神は日本仏教の各教団に現在まで受け継がれて、大乗仏教の利他の思想を実現すべく、多彩な福祉活動が各方面で 展開されている。  これら仏教の僧侶や為政者が仏教の利他の活動の一環として行った社会活動とは別の次元に於いて、民衆の中で他者に対する無償の奉仕活動が継続して行われてきたことにも注目したい。その活動の根底には、民衆の持つ独特の罪の意識があった。  日本人が古くから持つ罪の意識は、キリスト教徒の原罪とは基本的に異なる。日本人は日常生活の中で、生きていることが常に他に対し、また社会に対して、 迷惑をかけているという意識をもち、それが罪の意識となって心の中に根強く残った。その罪をそのまま清算せずに生きていると、さまざまな災いが,己が身に 降りかかり、不幸が訪れると信じられた。その贖罪を可能とするには、神仏の前で懺悔を行い、また当人が社会に対して、善行をおこなうことが必須の条件で あった。  このように社会のために労働する苦行が、己が犯した罪を払うという日本古代の贖罪観を背景とする社会福祉活動は、作善(さぜん)と呼ばれた。13世紀頃 に、念仏信仰を唱導しつつ、寺社の建立資金の調達のために全国を遊行した聖たちは、贖罪の意識をもって、各地に橋を架け、道を通じ、井戸を掘るなどの慈善 事業にも従事している。  奈良の東大寺の再建に寄与した重源(ちょうげん)には、「南無阿弥陀仏作善集」という著作がある。それによれば、彼は「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、寺 塔の建立、架橋、道路の改修、湯屋の建設などの「作善」を民衆に勧めつつ、人々を次々に仏教の信仰に引き入れていったことが知られる。  われわれが現代社会に生きていること自体が、限りある地球の資源を消費し、大気を汚染し、環境の破壊に多少に関わらず関与していることは事実である。罪 を犯しながら地球の上で生かさせてもらっているといってよい。その意識をもって、社会のために自分が何をなしうるか、生きる代償として地球環境の保存にい かに寄与しうるかを真剣に考える事態が今到来しているといってよい。  生きとし生けるもの相互のいのちのつながりの意識、弱者の中にかけがえのない価値を認める多元的な価値観、生かせていただいている意識をもって行う他者への奉仕活動、これらの問題を含め、現代人が仏教の思想に学ぶべき点が少なくないと私は考えている。 (以下は当日発表の英語原文) Some Suggestions Offered from Japanese Buddhism MATSUNAGA Yukei President of the Japan Buddhist Federation  The 21st century is a time of turmoil. Because of the amazing advances in science and technology during the last century, we now enjoy an unprecedented degree of material prosperity. Nevertheless, we still have not escaped from mental and spiritual suffering.  We see all around us the symptoms of a society lacking in normalcy: self-centeredness, insensitivity to the pain of others, the breakdown of local society, and the routinization of barbaric crimes. Looking at the world as a whole, while the developed nations have achieved economic development, the disparity between rich and poor is rapidly worsening in the developing nations. The global environment is deteriorating, resources are being depleted, and ethnic conflicts and interreligious strife are becoming commonplace. These are the increasingly lamentable circumstances in which we find ourselves.  We are hemmed in on all sides, and restrained both socially and individually in our mental activities. It is important for us to reflect calmly on our habitually self-centered ways of living, and change what needs to be changed to lead an honest life. It is necessary that we do this to make any fundamental changes in our present circumstances.  To achieve that, I wish to emphasize that Eastern culture, relatively neglected by modern society, and in particular Buddhist culture, contains within it the precise medicine needed to effectively uproot these diseases of modern society.  To make some brief suggestions capable of effectively handling the crises of modern society from Mahayana Buddhism, which is the form of Buddhism practiced in Japan, I would like to present the following three points: (1) a holistic approach recognizing the interdependence of all living things, (2) a pluralistic sense of values, and (3) social service based on the awareness that our lives are owed to the world and society. 1. A holistic approach recognizing the interdependence of all living things.  In Japanese Buddhism there is the concept of shifting the focal point of our worldview away from a homocentric—more specifically, an egocentric—view to one that takes the interconnections among all living things, including all forms of flora and fauna into full consideration. This concept lies at the very core of the Japanese Buddhist view of the nature of man.  Mahayana Buddhism teaches that all living things have the potential to become buddhas. This does not apply to human beings alone. All living things, including animals, birds, fish, and even insects can attain buddhahood. This way of thinking is different from the worldview of monotheism, which draws a sharp line between man and God.  Japanese Buddhism teaches that in essence even the mountains and streams, the plants and trees, share in this buddhahood. In the ancient spirituality indigenous to Japan, even inanimate things such as the mountains, streams, wind, or stones were worshipped as gods. This belief was absorbed into Buddhism, and given a Buddhist doctrinal foundation.  Modern thought has developed on the basis of egocentrism, and in making a clear distinction between subject and object. The objectification of phenomena is the foundation that permitted the development of modern science and technology. It has become quite common, under those circumstances, to ignore the interconnections between the self and the other, between the physical and spiritual, and between man and nature, and to see them as somehow independent of each other.  However, the most recent findings of research in the humanities and natural sciences suggest that there is no subject completely independent of objects. It has become difficult to conceive of matter and mind as two utterly separate things. We have controlled the plants and animals and acted as if we had the right to take advantage of them for our own benefit. Yet, we have now come to the point where we can no longer ignore the reciprocal relationship that exists among all living things, and their interconnected and complementary nature.  Japanese Buddhism sees phenomena commonly considered to exist in opposition to each other—subject and object, the individual and the whole, or matter and mind—to be fundamentally in a harmonious state of identity. Through dividing and subdividing phenomena for the purpose of analysis, we lose sight of that fundamental state. If we abandon the habit of treating things as being mutually opposed, and instead embrace a holistic approach, the true nature of these phenomena will manifest.  Buddhism asks us to change our point of view 180°. It asks us to change our view from the modern one of the self in opposition to other phenomena to a universalist frame of reference that sees the world as an interrelated whole.  The analytical way of thinking and the dualistic approach to matter and mind has supported the advance of science and technology. It has also exposed many stress points in modern society. An emphasis on the interdependence of all living things—the vision of life taught in Japanese Buddhism—may provide effective suggestions for handling such pressing issues of modern society as human alienation and environmental destruction. 2. A pluralistic sense of values  It is an incontrovertible fact that the foundation of the extraordinary advances in modern science and technology owes much to a normative set of values. However, the inconsistencies of human society brought together under such normative values became clear during the latter half of the twentieth century. It was realized that the so-called developed civilizations do not alone possess absolute values, and that all the developing cultures everywhere in the world each have their own unique values.  It may be said, in this consideration, that Eastern cultures such as those of India, China, or Japan have experienced a development based on pluralistic values. Since the time Buddhism was first brought to Japan at the beginning of the sixth century, the teachings of the Buddha have existed in harmony with the indigenous spirituality of the Japanese. There was no attempt by the Japanese people to eliminate either the teachings of Buddhism or the native Japanese beliefs. Rather, these two faiths in Japan have experienced a history of mutual influence and coexistence. One typically finds a shrine to the native Japanese gods and a Buddhist altar in the same home in Japan today, with prayers offered at both.  The principle of coexistence through accepting and integrating different cultures and their values is concretely demonstrated within Japanese Buddhism through Buddhist mandalas.  A mandala is a painting which gathers together the buddhas, the bodhisattvas in the process of becoming buddhas, and also the deities of Indian Brahmanism and the gods worshipped in Hinduism.  Buddhist mandalas incorporate not a few non-Buddhist gods brought together to coexist in a perfectly orderly fashion. The well-known bodhisattvas of Mahayana Buddhism or the gods worshipped in Hindu culture are divided into several groups according to their characteristics and positioned in the mandala. The outstanding qualities of various gods, such as those possessing wisdom, compassion, courage, or the power to accomplish matters, and so on are recognized, and the gods are transformed into Buddhist deities with their original uniqueness intact.  However, the individual characteristics of those gods are not completely retained. That is to say, individual characteristics may be divided into strengths and weaknesses. Buddhism passes their negative qualities by without criticism, and focuses only on their positive qualities, which are inversely connected to those weaknesses. Buddhism has the tolerance and broad-mindedness to incorporate them into the Buddhist pantheon as buddhas or bodhisattvas.  There is no concept of exclusivism or rejectionism here. This is not a system based on a monistic set of values drawing distinctions between good and evil, or chaos and cosmos. There is no reverence for one but not the other. The fundamental stance of Eastern culture, which allows and recognizes a pluralism values, is discernible in the teachings of the mandalas.  As outlined above, the worldview of Buddhism and the teachings of the mandalas undoubtedly can provide something of irreplaceable significance in the pursuit of intercultural dialog and a new guiding principle to live by in our modern society, abounding as it does in unending conflict and spiritual confusion. 3. Social service based on the awareness that our lives are owed to the world and society  In the history of Buddhism in Japan, there are many examples of Buddhists who have made positive contributions to society. While too numerous to list here, social welfare activities to assist the poor began with the importation of Buddhism to Japan in the sixth century as a concrete manifestation of the teachings of Mahayana Buddhism calling for a devotion to the principle of universal liberation from suffering. These activities included public projects such as the construction of hospitals, pharmacies, bridges, reservoirs, and roads, the establishment of free lodgings, and activities to aid orphans. In the thirteenth century, Japanese Buddhist monks involved in restoring the lost Buddhist monastic precepts achieved considerable results in their proactive involvement with welfare activities to assist the poor. This spirit has been passed down to the modern Buddhist groups in Japan, which engage in various forms of social outreach in the context of actualizing the altruistic teachings of Mahayana Buddhism.  Besides the Buddhist altruistic social activities engaged in by Buddhist monks or leaders, the ongoing tradition of providing aid to others without thought of recompense among the Japanese people deserves mention. The foundation of such activities lies in the unique Japanese understanding of wrongdoing.  The sense of wrongdoing that the Japanese have had since ancient times is fundamentally different from the Christian concept of original sin. The Japanese believe that the very act of their existence places a burden on others and on society. This is manifested as their awareness of wrongdoing, which is a deep-seated element in the Japanese consciousness. It is believed that unless that wrongdoing is somehow expiated, disasters or misfortunes will befall that person. To expiate this wrongdoing, it is necessary to repent before the gods and buddhas, and to engage in positive activities benefitting others and society.  Social participation based on the ancient Japanese way of expiating wrongdoing by working for the betterment of society in order to atone for one’s transgressions was called sazen, or engaging in positive or meritorious works. In the thirteenth century, the Buddhist holy men who preached devotion to Amitabha Buddha and traveled throughout Japan to accumulate the capital to build temples and shrines also, from a sense of atoning for wrongdoing, engaged in such charitable works as building bridges, opening roads, and digging wells.  The monk Chozen, who contributed to the rebuilding of Todai-ji temple in Nara, wrote a work called Doing Good in the Name of Amitabha Buddha. In that text he advocated such meritorious activities as the construction of temples and stupas, building bridges, repairing roads, establishing public baths in addition to seeking to develop the faith of the people out of devotion to the Buddha.  The simple fact of our living within modern society means that we contribute, to a greater or lesser degree, to the consumption of the limited resources of the world, the pollution of the atmosphere, and the destruction of the natural environment. We engage in such wrongdoing at the same time that our lives are supported by the world and society, and owed to them. The time has come for us to seriously consider, based on such an awareness, what we can do for society and how we can contribute to the preservation of the environment in return for its support of our lives.  An awareness of the interconnections and the interdependence of all living things, the admittance of pluralistic values recognizing the precious worth of those not endowed by mainstream society, and social service based on the idea that our existence is owed to the world and society: I believe that these points are among the many that we in this age might learn from Buddhism.
ハイチ大地震被災者への理事長メッセージ

2010年1月28日 声明・談話・要望書  

ハイチ大地震被災者への理事長メッセージ この度、ハイチ大地震被災者への理事長メッセージを発表いたしましたので、ホームページ上にて掲載させて頂きます。  ハイチ共和国において2010(平成22)年1月12日午後4時53分(日本時間13日午前6時53分)大地震が発生し、甚大な被害が出ております。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。  この度の大地震に関しまして全日本仏教会では、加盟する各宗派・都道府県仏教会・仏教団体より寄せられた「救援基金」より、1月20日ハイチ大使館・日 本赤十字社へ各100万円を寄託いたしました。WFB(世界仏教徒連盟)の人道支援委員会と連携し、様々な支援の方途を検討の上、支援団体とともに救援活 動に協力してまいります。   今後も我が国の伝統仏教界挙げての災害救援、人道的支援を通じ、被災地が一日も早く復興され、人々が安寧な暮らしができますよう願っております。   平成22年 1月28日 財団法人 全日本仏教会 理事長  豊 原 大 成
バラク・オバマ大統領来日に際しての理事長メッセージのプレスリリース

2009年11月10日 声明・談話・要望書  

バラク・オバマ アメリカ合衆国第44代大統領来日に際しての 全日本仏教会 理事長メッセージ  この度、バクラ・オバマ第44代アメリカ合衆国大統領の来日に際し、財団法人全日本仏教会及びWFB(世界仏教徒連盟)日本センターを代表し、歓迎の意 を表するとともに下記の理事長メッセージを報道各社にプレスリリースいたしました。ホームページ上でも、同内容を掲載いたします。  日本の伝統仏教界唯一の総連合体である、財団法人全日本仏教会、およびWFB(世界仏教徒連盟)日本センターを代表し、このたびバラク・オバマ、アメリカ合衆国第44代大統領が来日されることを歓迎致します。  大統領は就任以来、核兵器を使用したことがある唯一の国として自国の道義的な責任を明言され、核兵器のない世界の実現を志向しておられます。こうした大 統領の姿勢に共感を覚えると共に、大統領におかれましては世界平和実現のために、今後より一層具体的な行動を以てお示しいただければ幸いです。  またこのたびの来日に際し、広島・長崎をぜひ訪問いただき、唯一の被爆国として平和を真摯に希求する、我が国の現在の姿をご理解賜りたく存じます。  全日本仏教会は創立以来、仏陀の尊い教えの下に、仏教文化の宣揚と世界平和進展への寄与を目的として事業を展開して参りました。今後も全ての人々が怨讐を超えて、互いの信頼と尊敬の下に幸福を享受できる世界の実現に向けて努力して参ります。   平成21年11月10日 財団法人 全日本仏教会 理事長  豊 原 大 成
首相及び閣僚の靖国神社公式参拝中止の要請文を提出

2009年7月24日 声明・談話・要望書  

本会は、憲法の定める「信教の自由・政教分離」の原則に従い、「首相及び閣僚の靖国神社公式参拝中止の要請文」を、2009年7月24日(金)午前10時30分に提出致しました。  麻生太郎内閣総理大臣宛の「首相及び閣僚の靖国神社公式参拝中止の要請文」は、首相官邸において深澤信善事務総長及び深真樹社会人権審議会副委員長が浅野勝人内閣官房副長官へ手交いたしました。  本会及び加盟団体は、仏教を通じて世界の国々との交流と相互理解をこれまで深めてまいりました。この度の中止要請文は、靖国問題を日本と中国・韓国などアジア諸国との政治・外交上の問題として捉えて提出したものではありません。  本会はあくまでも「信教の自由」と「政教分離の原則」を堅持すべきという理由から中止要請文を提出いたしました。以下に中止要請文の内容を掲載致します。 浅野勝人内閣官房副長官(左)へ深澤信善事務総長(中央)及び深真樹社会人権審議会副委員長(右)が中止要請文を手交  首相及び閣僚の靖国神社公式参拝中止の要請   本会は、首相及び閣僚の「靖国神社公式参拝」に対して、反対の意志を表明し、公式参拝中止を要請いたします。  靖国神社は、特定の基準をもって合祀の対象とした戦没者を神霊として祀る神社であり、純然たる宗教施設であることが明白であります。  拠って、一宗教団体である靖国神社に首相及び閣僚が公式参拝することは、どのような形式をとりましても、憲法に定める「信教の自由・政教分離」の原則に違反することは疑いの余地がございません。  最高裁判所は、靖国神社等への公金支出が、金額の多寡を問わず憲法違反に当たるという、明確な判断を示しております。  私たちは、戦後六十四年のあいだ日本国民が守り育ててきたこれらの憲法の規定こそが、今日の日本の平和と繁栄の礎となっていることを、改めて確認し伝えていきたいと思います。  戦没者の追悼は、国家が特定の宗教に関わって行うべきものではなく、各ご遺族がそれぞれに真実と仰ぐ宗教によってなされるべきものであることは、当然のことであります。  以上の理由から本会は、首相及び閣僚が、靖国神社への公式参拝をなされないよう、強く要請いたすものであります。 二〇〇九年七月二十四日 財団法人 全日本仏教会 理事長 豊 原 大 成 内閣総理大臣 麻 生 太 郎 殿
北朝鮮の地下核実験及びミサイル発射に関する理事長談話のプレスリリース

2009年5月25日 声明・談話・要望書  

財団法人 全日本仏教会 理事長談話  日本の伝統仏教界唯一の連合体である、財団法人全日本仏教会及び世界仏教徒連盟日本センターの機関を代表し、このたびの北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)における核実験実施に対して以下の通り意見表明いたします。  平成21年5月25日、北朝鮮が地下核実験を実施し、さらに短距離ミサイルを発射したことが確認されました。北朝鮮が国際社会の強い危惧と懸念、自制を 求める声を無視してこれを強行したことは、我が国のみならず、東アジア及び世界の平和と安全に対する重大な脅威であります。  我が国は、広島・長崎への原爆投下を経験した唯一の被爆国であることにかんがみ、あらゆる国の核実験に反対するとともに、核兵器の廃絶を願うものであります。このたびの北朝鮮の行為に対して厳重に抗議し、遺憾の意を表明するものであります。  私たち仏教徒は、釈尊の尊い智慧と慈悲の教えを仰ぎつつ全ての人々に分け隔ての無い信頼と敬いの心によって、「平和・安全・幸福」を享受出来る世界の実現を願っています。 平成21年5月25日 財団法人 全日本仏教会 理事長  豊 原 大 成 本会加盟団体、及び関連団体におきましても、北朝鮮の核実験及びミサイル発射に関する声明が発表されておりますので、当ホームページ上にて紹介させて頂きます。今後も内容は随時更新していく予定です。 浄土真宗本願寺派 朝鮮民主主義人民共和国の2度目の地下核実験に対する抗議(声明) http://www.hongwanji.or.jp/news/seimei/20090526.html 曹洞宗 「朝鮮民主主義人民共和国の核実験に対して」 http://www.sotozen-net.or.jp/oshie/peace/20090526.htm 天台宗 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核実験に対する抗議声明 http://www.tendai.or.jp/shuchou/10.php 真宗大谷派 朝鮮民主主義人民共和国における核実験についての宗務総長コメント http://www.tomo-net.or.jp/info/news/090527.html 
北朝鮮の飛翔体発射に関する理事長談話のプレスリリース

2009年4月5日 声明・談話・要望書  

北朝鮮の飛翔体発射に関する理事長談話のプレスリリース  日本の伝統仏教界唯一の連合体である、財団法人全日本仏教会及び世界仏教徒連盟日本センターの機関を代表し、北朝鮮における飛翔体の発射に対する理事長談話を4月5日付けで報道各社にプレスリリースを致しました。ホームページ上でも、同内容の見解を発表致します。  本日(平成21年4月5日)、北朝鮮が飛翔体の発射を行ったことが確認されました。北朝鮮が国際社会の強い危惧と懸念、自制を求める声を無視して発射を強行したことは極めて遺憾であります。北朝鮮に対して厳重に抗議し、遺憾の意を表明いたします。  私たち仏教徒は釈尊の尊い智慧と慈悲の教えにより、全ての人々に分け隔ての無い信頼と敬いの心により、「平和・安全・幸福」を享受出来る世界の実現を願っています。  事態収拾の為に、武力や暴力的な手段を用いず、平和的な対話の積み重ねによる、人道的な解決の方途を探られるよう念願致します。 平成21年4月5日 財団法人 全日本仏教会 理事長  豊 原 大 成