全仏からのお知らせ
現下、国内外の情勢が大きく移り変わる中で、宗教がらみの戦争や大規模テロの勃発が相次ぎ、国内では少子高齢化や核家族化が進み人心の荒廃など様々な問題が山積しております。
こうした問題に対して、各種声明・意見書・要望書を提出及び発表しております。
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加盟団体からのお知らせ
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加盟団体へのお知らせ
本会の活動を全国のご寺院・所属団体の皆様に広報するため、加盟団体で発行している各機関誌等へ本会記事『全仏だより』の掲載にご協力頂いております。
各団体より要望がございました、過去の『全仏だより』、また最新の『全仏だより』を掲載をさせて頂きます。
また、今後はホームページ上でよりタイムリーなお知らせの掲載も予定しております。
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大会・会議・記念事業開催のお知らせ
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過去に開催した大会・会議・記念事業の報告
過去に開催した大会・会議・記念事業の報告一覧
救援活動
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国際交流
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広報活動
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声明・談話・要望書
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共催・後援・協力
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イベント情報
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- 人間の素晴らしさを皆さんに伝えたい 仏像ガールインタビュー
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2010年9月28日 広報活動
人間の素晴らしさを皆さんに伝えたい (対談)仏像ガール®×戸松義晴 中学生で父の死を経験して仏像ガール®。 死をきっかけに自身のいのちを見つめ、現在は仏像を通して人間の素晴らしさを伝える仕事をされています。 仏像や人間に対しての思いをお話し頂きました。 (9月号より本会機関誌『全仏』表紙写真を提供していただております) ※インタビュー前半は『全仏』誌9月号に掲載しております。 『全仏』誌9月号はこちら(PDFファイル) 空気に触れる 戸松義晴(以下戸松) 様々な場所へ訪れた中で、何か苦労というか、困ったことはありますか。 仏像ガール® 苦労を感じたことは、あまりありませんね。 私は車の免許をもっていないので、交通手段がないところは歩いて向かいます。 ときには、2時間以上も歩いてむかうときもあります。 そういうのは、人から見れば大変だって思われるかもしれませんが、 歩きながら人々と挨拶したり、地域の空気に触れるのが楽しくて、苦労とは感じないですし…。 戸松 車で移動すると、目的地だけに目がいきがちですが、 歩いて回ると途中にお地蔵様があったりして。 戸松義晴(プロフィールは巻末記載) 仏像ガール®(プロフィールは巻末記載) 仏像ガール® そうそう。 戸松 地域が大事にしているものがあって、そういうものと一体となって実はお地蔵様もあったり。 仏像ガール® 本当にそうなんですよね。 こんなとこにお地蔵様がいらっしゃった!っていう発見は本当にうれしいです。 仏様に対面するだけでも、もちろんすばらしい経験ができると思うのですが、 さらにその回りにある、仏様を大切にしている人たち、仏様と一緒に住んでいる人たちが、 こんなに優しいんだって思うと、より仏様も好きになっちゃうという感じですね。 戸松 なるほど。 仏像ガール® 歩きながらいろんな仏像や人と接する内に、 ずっと「人間なんて大嫌い」と思っていた私が、 いつの間にか「人間大好き」に変わっていたんですよ。 父が亡くなる前は、つっぱっていて。いじめもあって。 戸松 人を信用できない。 仏像ガール® そうなんです。 友達なんていらない、一人で生きていけると本気で思っていました。 友情なんて薄っぺらだって感じていたんですね。 人間なんて…と思っていたのに、仏像に出会う旅をする中で、 私がすごく感動するときには、そこに必ず「人」がいるということに最近ようやく気がついたんです。 ちょっと遅いんですけどね(笑)。 仏像に「会う」 戸松 仏像をご縁として様々な方と出会い、人の思いを感じられたのですね。 仏像ガール® そうなんです。 私がいつも皆さんにお話しさせていただくときには、 仏像を「見る」とか「鑑賞する」ではなくて、仏像に「会う」という言葉を使います。 仏像を美術のように、鑑賞物として見ている人たちが多くなっている一方で、 仏像を「難しい」とか「勉強しないとわからない」と感じている人もとても多いんです。 でも、私たちのおじいちゃん、おばあちゃんたちは、 きっと仏教のことをよく知っていたとか、仏像の知識がたくさんあったというわけではないんですよね。 仏様のことを信じて、ただ手を合わせていたのだと思います。 もちろん勉強したらとても楽しいし、それはすごく大切なことですが、 多くの人たちが難しいと思ったり「私は詳しくないから…」と一歩引いてしまうような 現状があるのであれば、そうじゃないよって伝えたいんです。 会いにいく。頭で考えるのではなくて、ただ人に出会うのと同じように仏様に会いにいけたら、 それだけで身近に感じられるかもしれないよって。 仏像を遠いと感じている人たちの背中を押せたらいいなって思います。 戸松 仏像に「会う」。仏像ガールさんの思いが伝わってくる言葉ですね。 今回から『全仏』誌の表紙をご依頼させていただきますが、ご自身の中でどのような思いを抱かれていますか。 仏像ガール® そうですね。 私がもっているものや誇れるものって、あまりないんです。 仏像ガールといっても、仏像の専門的な知識がたくさんあるわけでもなければ、 お坊様のように修行をしてきたわけでもありません。 私がもっているのは、仏像に会いたくて歩いてきた経験と、 仏像が大好きだっていう気持ちだけなんです。 なので、背伸びすることなく等身大の私が感じた、仏様が生きている町の風景や、 人々のあったかさのような、仏像と人間が同居している日本の景色を 伝えられたらいいなと思っています。 戸松 なるほど。 人が感じられるあたたかみのある風景ですね。 先程おっしゃった「人間ってすごい」という感動が、 ご自身の活動を貫いていることがよくわかりました。 笑顔で迎えてほしい 戸松 様々な出遇いを経験されている中で、お寺さんやお坊さんに対する思いはありますか。 仏像ガール® お寺様、お坊様に望むことはひとつだけで、笑顔で迎えてほしい!ということですね。 もちろん笑顔で迎えられることもあって、嬉しいときもありますが、逆にすごく悲しい思いをする場合もあります。 仏様はとってもにこやかなのに、その手前にいらっしゃるお坊様が笑ってなかったりすると、どうしてって。 戸松 そういうときもあるのですね。 他にはどのようなことを思いますか。 仏像ガール® お寺や仏様について知りたいって思ったとき、 いつでも聞ける窓口をつくっておいてほしいというか、 心を開いていてほしいというか、そんなことを思います。 それが先程の笑顔で迎えて!という願いにつながるのですが。 私自身もそういった経験があります。 聞きたくても、お坊さんがいないとか、お坊さんが知らないとか。 煙たがられた経験もありますしね(笑)。 誰かが、特に若い人たちが仏像やお寺に興味をもったら、 その芽を潰したくないなって思うんです。 できるだけ大切にしたい。そのために、お坊様の役割はとても大きいと思うので、 いつでも笑顔で迎えていただけたらなというのが一参拝者としての願いです。 仏教や仏像もみんなのご先祖さまがここまで大切にしていたんだよっていう心や想いが、 後世にも伝わっていったらうれしいですね。 戸松 なるほど。 お話をお伺いして、人生を仏像に捧げると。 そんな中で、私もお坊さんになろうと考えたことはありますか。 仏像ガール® 本当によく聞かれる質問です。最終目標はお坊さんですかって。 実は、出家したいと思ったことは一度もないんです。 修行や得度しないとわからないことは、たくさんあると思うので、 それを知りたいなという気持ちはなきにしもあらずですが。 考えてみると、私が仏像ガールとして活動できているのは、 お寺様や仏像と一般の方をつなぐ、その間にいられるからなのかなって。 間というか、一般の人たちの中にいられるからだと思うんです。 こんな女の子が「仏像好き」って言ってるんだったら、じゃあ私にもわかるかな、という感じで。 なので、仏像ガールとしては、一般の方の中の「仏像が好きな一人」としていたいなと思います。 ティック・ナット・ハンから思うこと 戸松 お話をお聞きして、ふと思ったことがあるのですが。 ティック・ナット・ハンはご存じですか。 仏像ガール® いえ、はじめて伺いました。どのような方なのですか? 戸松 私がアメリカにいたときに出会って、私の人生が変わったというかね。それほどインパクトがあって。 ベトナム出身のお坊さんで、ベトナム戦争中に和平のために努力をした方です。 結果として、国外追放になって、今はフランスにいるんですけど。 ベトナム戦争の当時から、仏教のソーシャルサービスというんでしょうか。 目の前に、戦争で苦しんでいる人たちがいるのに、お坊さんが祈りという名の下に、 瞑想をしたり、御経を勤めているだけでいいんだろうかと考え、助けを必要としている人々を支援していらっしゃいました。 彼が言ったのは、中道ということで、南北ベトナムのどちらにもつかないということでした。 どちらにもつかないことによって、結果として両方から攻撃されましたが、 それでも中道がすごく大事だということを説いていました。 そういう経験を通して、月を指す指はいろんな指がある。 だからどの指が一番いいとか悪いとかを言い争ってはいけないということをおっしゃっていましたよ。 お話をお伺いしていて、思いをもって仏像と出会うことによって、 仏教を自然に感じられているのかなと。 私は仏教のすばらしさというのは、縁を大事にしていくと、そういうところに行き着くのかなと。 仏像ガール® そうかもしれませんね。 戸松 ご自身が感じられた、自然な気持ちを伝えている方のお話が、 多くの方の心に響くと思います。是非これからもご活躍なさって下さい。 本日はお忙しい中、ありがとうございました。 仏像ガール® こちらこそありがとうございました。 仏像ガール®(写真右) 1979年神奈川県出身。上智大学比較文化学部卒業。現在、仏像ナビゲータ、奈良国立博物館文化大使(本名ではなく、仏像ガール®として活動)。著書に「感じる・調べる・もっと近づく仏像の本(山と渓谷社)」等。 戸松義晴(写真左) 1953年東京都出身。ハーバード大学神学校において、神学修士取得。現在、浄土宗心光院住職、全日本仏教会事務総長他。著書に「Never Die Alone」「仏教ターミナルケア-エイズホスピス寺院から学ぶもの-」等。
- 第25回 世界仏教徒会議 スリランカ大会記念ツアーのご案内
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2010年9月1日 国際交流
WFB創立60周年記念祝典 第25回世界仏教徒会議スリランカ大会 記念ツアーのご案内 財団法人全日本仏教会が日本センターとして加盟するWFB(世界仏教徒連盟)主催による、第25回世界仏教徒会議がWFB創立60周年記念祝典と併せて、11月にスリランカで開催されます。 WFBに日本を代表して加盟している唯一の団体であります本会では、記念祝典に参加すべくツアーを企画いたしました。期間中には、記念祝典の参列と世界遺産4カ所の訪問を予定しております。 この機会に一人でも多くの皆さまにご参加いただき、国際交流ならびにスリランカの仏教事情に関して、造詣を深めて頂ければ幸いです。 ご参加お待ちしております。 ■ツアー名称■ 第25回世界仏教徒会議スリランカ大会記念ツアー ■旅行期日■ 平成22年11月15日(月)~11月20日(土)[4泊6日] ■場所■ スリランカ(コロンボ・キャンディ・ダンブラ・シギリヤ・ポロンナルワ) ■旅行代金■ 177,000円(一名) ※追加代金や税金等は下記パンフレットをご参照下さい。 ■募集人員■ 成田発30名(最少催行人員:15名) ■参加資格■ 全日本仏教会加盟団体関係者及び賛助会員 ■申込締め切り日■ 平成22年10月8日(金) ※但し、定員になり次第締め切らせていただきます。 ■申込方法■ 下記申込先に電話にてご連絡下さい。 企画・申込先 財団法人全日本仏教会 〒105-0011 東京都港区芝公園4-7-4 明照会館2F Tel:03-3437-9275 Fax:03-3437-3260 担当:垣内・中村 第25回世界仏教徒会議公式HP(英語版)
- 第41回 全日本仏教徒会議 栃木大会開催 11月9日・10日
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2010年9月1日 過去に開催した大会・会議・記念事業の報告
第41回 全日本仏教徒会議 栃木大会開催要項 大会テーマ 慈悲の心「社会参加仏教」 開催期日 平成22年11月9日(火)~10日(水) 主 催 財団法人 全日本仏教会 栃木県仏教会 大会日程 第1日目 日 時 11月9日(火) 12時受付開始 会 場 宇都宮グランドホテル 開会式 12:30~ シンポジウム 13:25~17:15 「社会参加仏教の課題と展望」=エンゲージド ブッディズム コメンテーター 山折哲雄(宗教学者) パネラー 金子 昭(天理大学教授) パネラー ランジャナ・ムコパディヤーナ(デリー大学教授) コーディネータ 山口幸照(高野山大学准教授) 質疑応答あり ※ シンポジウム「社会参加仏教の課題と展望」には、どなたでもご 参加が可能です。是非ご参加下さい。(参加費 2,000円) 加盟団体代表者会議 15:25~ 交流懇親会 17:45~ 第2日目 日 時 11月10日(水) 9時15分受付開始 会 場 宇都宮市文化会館大ホール 記念式典 9:45~ 法要・日光山輪王寺「延年の舞」 特別講演 10:45~ 講師 瀬戸内寂聴「忘己利他」 ※瀬戸内寂聴師による特別講演は ご本人の体調不調により中止となりました。 記念講演 11:30~ 講師 船村 徹「我が演歌的人生考」 大会宣言・大会旗返還 12:40~ オプショナルツアー「世界遺産・日光輪王寺」 (9月30日までに下記事務局にお申し込み下さい) お問い合わせ 第41回全日本仏教徒会議栃木大会事務局 電話 028-635-3551 FAX 028-635-3553 他、詳細は開催要項をご覧下さい。 開催要項ダウンロードはこちらから
- 「首相及び閣僚の靖国神社公式参拝について(中止の要請文)」提出について
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2010年8月11日 声明・談話・要望書
標記の件に関しまして、本会は8月10日午後4時に、下記宛てに本会理事長名の要請書 (別紙)を提出いたしました。戸松義晴事務総長が福山哲郎内閣官房副長官を通じ菅直人内閣総理大臣へ手交いたしました。 本会及び加盟団体は、仏教を通じて世界の国々との交流と相互理解をこれまで深めてまいりました。この度の中止要請文は、靖国問題を日本と中国・韓国などアジア諸国との政治・外交上の問題として捉えて提出したものではありません。 本会はあくまでも「信教の自由」と「政教分離の原則」を堅持すべきという理由から中止要請文を提出いたしました。 同日午前の閣議後の記者会見において、首相及び閣僚が靖国神社公式参拝を行わない、との発表がありました。本会は、永年(本年33回目)に渡る要請文の提出の中、このたび菅首相及び閣僚が本会の要請に沿った決断をされた事に感謝の意を表します。 また、同日閣議決定された「首相談話」に「朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を今後とも誠実に実施していきます。」との一文が入りました。 本会は、小泉純一郎元総理大臣が当時行われた日韓首脳会談にもとづき、日本政府より依頼されたご遺骨の返還問題と取り組んでまいりました。本会及び各加 盟団体が広報・調査研究の経費を負担し、全国各地の寺院が調査に協力した成果が今後より生かされて、速やかに遺族の元へご遺骨が返還される事を願っており ます。 福山哲郎内閣官房副長官(左)へ戸松義晴事務総長(右)が要請文を手交 首相及び閣僚の靖国神社公式参拝について 私たち仏教徒は、釈尊の御教え「いのちの尊重・慈悲の精神」にもとづき、争いのない世界を目指して活動してまいりました。 本会は、自由民主党政権時より、首相及び閣僚の「靖国神社公式参拝」に対して、再三にわたり反対の意志を表明してまいりました。 菅 直人首相におかれましては、さる六月一五日の参議院本会議において、靖国神社公式参拝されない旨、明言されました。本会はこのことを高く評価するものであります。 靖国神社は、特定の基準をもって合祀の対象とした戦没者を神霊として祀る神社であり、純然たる宗教施設であることは明白であります。 拠って、一宗教団体である靖国神社に首相及び閣僚が公式参拝することは、どのような形式をとりましても、憲法に定める「信教の自由・政教分離」の原則に違反することは疑いの余地がございません。 最高裁判所は、靖国神社等への公金支出が、金額の多寡を問わず憲法違反に当たるという、明確な判断を示しております。 私たちは、戦後六五年のあいだ日本国民が守り育ててきたこれらの憲法の規定こそが、今日の日本の平和と繁栄の礎となっていることを、改めて確認し伝えていきたいと思います。 戦没者の追悼は、国家が特定の宗教に関わって行うべきものではなく、各ご遺族がそれぞれに真実と仰ぐ宗教によってなされるべきものであることは、当然のことであります。 以上の理由から本会は、現閣僚に対して靖国神社への公式参拝をされないよう、強く要請いたすものであります。 二〇一〇年八月一〇日 財団法人 全日本仏教会 理事長 有 田 惠 宗 内閣総理大臣 菅 直 人 殿
- 葬儀は誰の為に行うのか?~お布施をめぐる問題を考える~ シンポジウム9月13日開催
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2010年7月26日 全仏からのお知らせ
全日本仏教会 シンポジウム開催のご案内 葬儀は誰の為に行うのか? ~お布施をめぐる問題を考える~ 全日本仏教会では、葬儀をめぐる問題を考えるシンポジウムを9月13日午後6時より開催いたします。本シンポジウムは一般の方々を対象とした公開シンポジウムで、無料にて参加が可能です(要申し込み). 詳細に関しては下記をご覧下さい。 シンポジウム開催主旨 近年、特に大都市を中心として「菩提寺を持たない」「菩提寺を知らない」という方々がいらっしゃいます。また「実家の菩提寺は知っているが、今の住まい から離れているので、付き合いがない」など、人口の流動による寺檀関係の希薄化が進み、菩提寺と関係を持たない方々が、突然葬儀という場面に対応しなけれ ばならないケースが増えております。いわゆる家制度が保たれた時代では、数世代が同居し、家長の仕切を見ながら、多くのしきたりを次世代が継承し、寺檀関 係においても「阿吽の呼吸」で過ごすことができました。 では、そのようなことを知らない方々はどう対応すればいいのでしょうか?いったい寺檀関係とは何でしょうか?葬儀のときに僧侶に渡す「お布施」とは、どのような意味が込められるものなのでしょうか? 我々僧侶は、菩提寺と関係を持たない方々が、お布施という明確な基準を持たないものに対する不満と、寺院との付き合い方がわからない不安に対して、目を向け、耳を傾けてこなかったのかもしれません。 このシンポジウムは、お布施を通して、僧侶が一般社会からどのように見られているのか。一般の方々と僧侶の間で起きているであろう、葬儀(お布施)に対 する考え方の違いを浮き彫りにして、僧侶と一般の方々との問題の共有を図り、菩提寺と関係を持たない人々に対して葬儀の重要性を共に考えていきたいと思い ます。 さらにはそのような方々と新たに寺檀関係を結ぶことができる葬儀、つまり一般の方々が意義を見いだせる葬儀とはどのようなものかを僧侶自らが「律する」という視点に立ち理解し、一般の方々と僧侶との信頼関係構築の一助となれば幸いです。 ■内容■ 第1部 各講師による講演 1、最近の葬儀事情(データ解説) ○石田 佳宏 (大和総研主任研究員) 2、寺檀関係の変化 ○中島 隆信 (慶応大学商学部教授) 3、僧侶と檀信徒の関係とは ○碑文谷 創 (葬送ジャーナリスト) 4、一般の方々が納得する葬儀とは ○玄侑 宗久 (芥川賞作家 僧侶) 第2部 ディスカッション コーディネーター(戸松義晴 本会事務総長)を交えて、参加者からの質問を集約し討論。 シンポジストプロフィール 石田 佳宏(いしだ よしひろ) 1962年大阪府生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 現在、株式会社大和総研金融・公共コンサルティング部の主任研究員。宗教法人を担当しており、宗教法人の税務調査動向、葬儀価格動向などのレポートを配信。 中島 隆信(なかじま たかのぶ) 1960年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。 その後、内閣府経済社会総合研究所上席主任研究官に就任。現在は慶応義塾大学商学部教授。商学博士。主な著書に『お寺の経済学』『障害者の経済学』がある。 碑文谷 創(ひもんや はじめ) 1946年岩手県生まれ。東京神学大学大学院修士課程中退。 1990年に表現文化社設立。現在、雑誌『SOGI』編集長。主な著書に『「お葬式」はなぜするの?』『死に方を忘れた日本人』がある。 玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう) 1956年福島県生まれ。慶応義塾大学文学部中国文学科卒業。 現在、臨済宗福聚寺住職で妙心寺派東京禅センター運営委員。花園大学客員教授。2001年に著書『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。 戸松 義晴(とまつ よしはる) 1953年東京都生まれ。ハーバード大学神学校において応用神学と生命倫理学を学び神学修士取得。現在、浄土宗心光院住職・財団法人全日本仏教会事務総長・浄土宗総合研究所専任研究員等。 著書に『Never Die Alone』『仏教徒ターミナルケア-エイズホスピス寺院から学ぶもの-』等多数。 ■開催日時■ 平成22年9月13日(月) 午後6時~午後8時30分 ※ 受付開始は5時30分より ■会場■ 秋葉原ダイビル2階 コンベンションホール JR秋葉原駅電気街口徒歩1分 ■参加費■ 無料 ■定員■ 350名(先着順。定員になり次第、締め切りとさせて頂きます) ※定員になりましたので、申込を終了致しました。 多数のご応募まことにありがとうございました。 ■申し込み方法■ 参加ご希望の方は、こちらからFAX専用申込用紙を印刷し、必要事項を明記の上、送信して下さい。 取材ご希望の方は、申込用紙の備考欄に会社名をご記入の上、『取材希望』とご記入下さい。 (事前申し込みの無い取材はお断りさせて頂く場合がございます) 申し込み用紙ダウンロードはこちら ※定員になりましたので、申込を終了致しました。 多数のご応募まことにありがとうございました。 ■お問い合わせ先■ TEL 03-3437-9275 FAX 03-3437-3260 全日本仏教会 社会人権部
- 宮崎県口蹄疫感染の被害にあわれた皆様へのお見舞い
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2010年6月25日 声明・談話・要望書
宮崎県口蹄疫感染の被害にあわれた皆様へのお見舞い 宮崎県において口蹄疫感染により甚大な被害が発生しております。口蹄疫被害にあわれた畜産農家の皆様並びに関係者の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。 この度の口蹄疫被害に関しまして全日本仏教会では、加盟する各宗派・都道府県仏教会・仏教団体より寄せられた「救援基金」より、100万円を24日に清 水宗諦 宮崎県仏教連合会会長を通じて、宮崎県庁福祉保険部 田原新一 次長に寄託いたしました。今後も様々な支援の方途を検討の上、救援活動に協力いたしてまいります。 食の安全と安心に対する一般消費者の関心が高揚している中、風評により宮崎県並びに畜産業へのイメージが害されることがなきよう祈念いたします。 どうか、一日も早く口蹄疫被害が終息し、宮崎県内の畜産農家の皆様並びに関係者の皆様が平穏な、日々の生活を送れるよう心より願っております。 平成22年 6月25日 財団法人 全日本仏教会 理事長 有 田 惠 宗 ニュースリリースの一覧へ戻る
- 宮崎県口蹄疫被害に対して「救援基金」を寄託
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2010年6月25日 救援活動
宮崎県口蹄疫被害に対して「救援基金」を寄託 宮崎県口蹄疫被害に対して本会は「お見舞い」の理事長声明をプレスリリースすると共に、「救援基金」より100万円を、宮崎県仏教連合会に依頼して、清水宗諦 宮崎県仏教連合会会長、田中慎二 同副会長、山口和省 同事務局長が6月24日に宮崎県庁を訪れ、福祉保険部 田原新一 次長に義捐金を寄託いたしました。 写真右より 宮崎県福祉保健部次長(福祉担当) 田原真一氏 宮崎県仏教連合会会長 清水寺住職 清水宗諦師 宮崎県仏教連合会副会長 帝釈寺住職 田中慎二師 本会では、国内外における災害救援や人道的支援等に対し、緊急且つ迅速な対応をすべく「救援基金」を常時開設しております。本年春より、宮崎県内で発生 した口蹄疫被害は日を追うごとに被害が拡大し、6月18日現在の殺処分対象は276,040頭に上っており、宮崎県は非常事態宣言を発するに至っておりま す。今後も被災状況を注視し、救援活動を支援してまいります。 つきましては、みなさまの温かい浄財を「救援基金」までお寄せ頂きますようお願い申し上げます。ご協力に際しましては、下記、ご参照ください。 →「救援基金」ご協力のお願い
- ハイチ大地震に際して救援基金を追加寄託
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2010年5月18日 救援活動
本会では、国内外における災害救援や人道的支援等に対し、緊急且つ迅速な対応をすべく「救援基金」を常時開設しております。 日本時間2010年1月13日午前6時53分、ハイチ共和国(首都 ポルトープランス)で発生した地震は20万人以上の方が死亡したと報告があります。 今回の地震災害に対して、本会は4月30日、救援基金へハイチ地震指定寄付として集まった2,443,301円を仏教NGOネットワークへ振込にて寄託いたしました。 本会は本年1月20日にも、ハイチ共和国へ見舞金100万円、日本赤十字社を通して国際赤十字社へ100万円を救援基金より支出いたしました。 →詳細はこちら
- 中国青海省大地震に際して救援基金を寄託
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2010年4月16日 救援活動
本会では、国内外における災害救援や人道的支援等に対し、緊急且つ迅速な対応をすべく「救援基金」を常時開設しております。 4月14日、中国青海省玉樹チベット自治州玉樹県にて起きた地震は16日現在、700名以上の方が死亡したと報じられております。 今回の地震災害に関して、本会は4月16日、戸松義晴事務総長が中華人民共和国大使館を訪問し、曲来璞中華人民共和国駐日本国大使館公使に義捐金100万円を寄託いたしました。 戸松義晴事務総長が曲来璞中華人民共和国駐日本国大使館公使に救援基金を寄託 今後も被災状況を注視し、被災国政府機関、国際救援機関、並びに日本の仏教系NGO団体へ皆様から寄せられた義捐金を寄託し、現地の被災者救援活動を支援してまいります。 ※ 救援・復興支援状況は全仏誌及び本会ホームページで逐次報告させていただきます。
- ダボス会議にて松長有慶会長が出席及び提言
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2010年1月30日 声明・談話・要望書
ダボス(スイス東部)で行われた世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に松長有慶会長の提言がメディアを通じて公開されました。以下にその全文を掲載させて頂きます。 日本仏教からの提言 財団法人 全日本仏教会 会長 松長有慶 21世紀は混迷の時代である。前世紀の科学技術文明の驚異的な発展によって、人々は未曾有の物質的な繁栄を享受しながらも、精神的な痛みを抱えながら生きている。 われわれの周辺を見渡してみても、自己主張が突出し、他人の痛みには鈍感で、地域社会の連帯は希薄化し、凶悪犯罪が日常化する異常な社会が現実化しよう としている。世界全体を見れば、先進諸国の経済的な発展の蔭で、開発途上国の人々との間に貧富の差が急激に増大し、地球環境が劣悪化し、資源が枯渇し、民 族紛争、宗教間の対立抗争が常態化する憂うべき事態が現在進行しつつある。 社会的にも、個人の内面においても、八方ふさがりの閉鎖状態にあって、われわれは今まで自己が持ち続けてきた固定した人生観を冷静に反省して、改めるべき点があれば、率直に生き方を転換させて、事態の根本的な改善を図る必要があろう。 そのために、近代人が比較的等閑視してきた東洋の文化、とくに仏教の文化の中に、現代社会の病根に有効に作用する良薬が少なからず残されていることに、私は注目したい。 大乗仏教を奉ずる日本の仏教徒が、現代社会の危機に対して有効と思われる提言を要約すれば、1.生きとし生ける者の相互の関連性を認める全体的思考、2.多元的な価値観、3.生かせていただいている意識から社会奉仕活動へ、これら3点に集約されるであろう。 1.生きとし生ける者の相互の関連性を認める全体的(wholistic)思考 日本仏教には、人間中心、とくに自己中心的な視点を転換して、無限の宇宙的な視野の下に、人間だけではなく、動物、植物などあらゆる生物の相互のつながりを示す「一切衆生」という思想があり、日本の仏教徒の人生観の根底に横たわっている。 大乗仏教では、一切衆生はすべて仏になる可能性を持っていると説く。人間だけではなく、獣も鳥も魚も、虫けらに至るまで、あらゆるいのちあるものは、仏になりうるという思想は、人間と神との間に明確な一線を引く一神教の世界観とは異なる。 日本仏教では、山や川、草や樹木もまた本質的には、仏であると説く。それは、生きものだけではなく、山や川、風や石ころなどの無生物まで、神として崇敬してきた民俗信仰を仏教が摂取し、仏教の教理によって裏づけを与えたものである。 近代思想は自我を中心として、自と他を明確に区別するところから出発した。それは物事を対象化して捉え、近代の科学技術文明を発達させる基盤を作り上げ た。だが一面において自と他、物と心、人間と自然などの間にあった靭帯を切断し、それぞれを独立の存在とみなす考えが常識化することとなった。 しかし最近の人文科学や自然科学の研究の成果によると、他者から完全に切り離された自己は存在しないし、物質と精神をまったく別個の存在とみなすことは 困難となった。また人間だけが動植物や自然界を支配し、それらを隷属化する権利を持つものではなく、それらの間には相互に関連し、補完しあう共存の関係を 想定せざるを得なくなった。 日本仏教の考えからすれば、自と他、個と全体、物と心というように、一般に対立的に考えられている存在は、もとより一体である。ものごとを分析的により 分け、細分化することによって、ものの本質は見えてこない。むしろ対立的な思考を捨てて、全体的に把握することによって、ものの真実の姿が現われてくると 見る。 仏教は自我を中心として対立的に世界を見る近代思想から、宇宙的な視座の下に、全体的、相互関連的に世界を見る立場へと、視点の百八十度の転換を提案している。 分析的な思考法とか、物心二元論的な思考は近代の科学技術文明の進歩を支えてきたが、さまざまなひずみを現代社会に露呈することとなった。すべての存在 に、いのちを認め、相互の関連性を重視する日本仏教の総合的で、生命論的な観点は、人間疎外とか環境破壊といった現代社会が解決を迫られている問題に対し て、有効な示唆を与えるであろう。 2 多元的な価値観 近代の科学技術文明の驚異的な進歩の基盤には、一元的な価値観があったことは疑い得ない。しかしながら人間社会をすべて一元的な価値観によって統合する 思想の矛盾点も、20世紀後半になって明確になってきた。いわゆる先進文明だけが唯一絶対の価値を持つものではなく、地球上のあらゆる地域に存在する未開 の文化も、それぞれ独自の価値を持つことに人々は気づいた。 このような点に於いて、インドや中国、あるいは日本などの東洋の文化は多元的な価値観に基づいて展開してきたといえる。日本仏教においても、6世紀の始 め、その伝来当初から、仏と日本人がそれまで信仰してきた民族神との融合が図られてきた。日本の民衆の間では、外国から渡来した仏と、民族信仰の神々が排 除しあうことなく、互いに影響を与えあって共存してきた歴史を持っている。現在でも日本人の間では、同じ屋根の下で仏壇と神棚がともに祀られ、祈りが捧げ られている家庭が少なくない。 異なった文化を否定することなく、その存在価値を認め、自己の組織の中に取り込み共存する原理は、日本仏教の中でも、仏教の曼荼羅の中に具体的に表現されている。 曼荼羅とは仏とか、それに至る修行過程にある菩薩、さらにはもともとインドで、バラモン教で祭られる神や、ヒンヅー教で信仰されていた神を取り入れた明王や天部の神々を集約して画いた絵図である。 曼荼羅には異教徒の神々が少なからず取り入れられているが、それらは無秩序に寄せ集められたものではない。その中では、大乗仏教の中では有名な菩薩た ち、あるいは民族信仰の神々が、民衆が信じている神々の性格別に、いくつかのグループに分け、配置されている。知的な神、情け深い神、勇気のある神、エネ ルギーに満ちた実行力に富む神等々、それぞれのグループに分けられて配置されている。たとえ異教徒たちの崇拝する神であっても、それぞれの長所を認め、本 来の個性を持ったままに、仏教の仏に変えてしまう。 しかしながら個性を持つということは、100%完全ではないということである。個性は長所と短所を二つながら持っている。仏教では短所のみを取り上げ、 その欠点を非難することなく、それと表裏の関係にある長所だけに眼を向け、その長所を持つために、仏や菩薩として仏教のpantheonに偏入してしまう 包容性を持っている。 そこには排除とか否定の論理は認められない。それは一元的な価値観によって、善と悪、あるいはカオスとコスモスとを画然と区別して、一方だけを尊重する 思想ではない。無数の価値基準を用意して、いずれかに当てはまるものは、すべて取り入れていこうとする東洋文化の基本的な姿勢を、曼荼羅の思想の中に見出 すことが出来る。 以上のような仏教の世界観や曼荼羅の思想は、対立抗争が渦巻き、精神的な混迷の度を益々深めていく現代社会において、異文化との対話、生活文化の新しい指導原理を求める場合、かけがえのない重要性を持つに違いない。 3.生かせていただいている意識から 社会奉仕活動へ 日本仏教の歴史の中で、仏教者が社会に積極的に働きかけている事例は数多くある。具体例を列挙する紙幅を持たないが、日本における貧民救済などの社会福 祉活動は、6世紀に仏教が伝来した初期から始まる。それは大乗仏教の利他の精神の具体化とみられる。病院、施薬院の創設、橋を架け、池を掘り、道路を開く などの公共事業、無料宿泊所の設置、孤児救済活動を始め、13世紀には、仏教の戒律復興運動の従事した僧侶たちによって、各種の貧民救済の福祉事業が積極 的に行われ目覚しい成果を挙げてきた。その精神は日本仏教の各教団に現在まで受け継がれて、大乗仏教の利他の思想を実現すべく、多彩な福祉活動が各方面で 展開されている。 これら仏教の僧侶や為政者が仏教の利他の活動の一環として行った社会活動とは別の次元に於いて、民衆の中で他者に対する無償の奉仕活動が継続して行われてきたことにも注目したい。その活動の根底には、民衆の持つ独特の罪の意識があった。 日本人が古くから持つ罪の意識は、キリスト教徒の原罪とは基本的に異なる。日本人は日常生活の中で、生きていることが常に他に対し、また社会に対して、 迷惑をかけているという意識をもち、それが罪の意識となって心の中に根強く残った。その罪をそのまま清算せずに生きていると、さまざまな災いが,己が身に 降りかかり、不幸が訪れると信じられた。その贖罪を可能とするには、神仏の前で懺悔を行い、また当人が社会に対して、善行をおこなうことが必須の条件で あった。 このように社会のために労働する苦行が、己が犯した罪を払うという日本古代の贖罪観を背景とする社会福祉活動は、作善(さぜん)と呼ばれた。13世紀頃 に、念仏信仰を唱導しつつ、寺社の建立資金の調達のために全国を遊行した聖たちは、贖罪の意識をもって、各地に橋を架け、道を通じ、井戸を掘るなどの慈善 事業にも従事している。 奈良の東大寺の再建に寄与した重源(ちょうげん)には、「南無阿弥陀仏作善集」という著作がある。それによれば、彼は「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、寺 塔の建立、架橋、道路の改修、湯屋の建設などの「作善」を民衆に勧めつつ、人々を次々に仏教の信仰に引き入れていったことが知られる。 われわれが現代社会に生きていること自体が、限りある地球の資源を消費し、大気を汚染し、環境の破壊に多少に関わらず関与していることは事実である。罪 を犯しながら地球の上で生かさせてもらっているといってよい。その意識をもって、社会のために自分が何をなしうるか、生きる代償として地球環境の保存にい かに寄与しうるかを真剣に考える事態が今到来しているといってよい。 生きとし生けるもの相互のいのちのつながりの意識、弱者の中にかけがえのない価値を認める多元的な価値観、生かせていただいている意識をもって行う他者への奉仕活動、これらの問題を含め、現代人が仏教の思想に学ぶべき点が少なくないと私は考えている。 (以下は当日発表の英語原文) Some Suggestions Offered from Japanese Buddhism MATSUNAGA Yukei President of the Japan Buddhist Federation The 21st century is a time of turmoil. Because of the amazing advances in science and technology during the last century, we now enjoy an unprecedented degree of material prosperity. Nevertheless, we still have not escaped from mental and spiritual suffering. We see all around us the symptoms of a society lacking in normalcy: self-centeredness, insensitivity to the pain of others, the breakdown of local society, and the routinization of barbaric crimes. Looking at the world as a whole, while the developed nations have achieved economic development, the disparity between rich and poor is rapidly worsening in the developing nations. The global environment is deteriorating, resources are being depleted, and ethnic conflicts and interreligious strife are becoming commonplace. These are the increasingly lamentable circumstances in which we find ourselves. We are hemmed in on all sides, and restrained both socially and individually in our mental activities. It is important for us to reflect calmly on our habitually self-centered ways of living, and change what needs to be changed to lead an honest life. It is necessary that we do this to make any fundamental changes in our present circumstances. To achieve that, I wish to emphasize that Eastern culture, relatively neglected by modern society, and in particular Buddhist culture, contains within it the precise medicine needed to effectively uproot these diseases of modern society. To make some brief suggestions capable of effectively handling the crises of modern society from Mahayana Buddhism, which is the form of Buddhism practiced in Japan, I would like to present the following three points: (1) a holistic approach recognizing the interdependence of all living things, (2) a pluralistic sense of values, and (3) social service based on the awareness that our lives are owed to the world and society. 1. A holistic approach recognizing the interdependence of all living things. In Japanese Buddhism there is the concept of shifting the focal point of our worldview away from a homocentric—more specifically, an egocentric—view to one that takes the interconnections among all living things, including all forms of flora and fauna into full consideration. This concept lies at the very core of the Japanese Buddhist view of the nature of man. Mahayana Buddhism teaches that all living things have the potential to become buddhas. This does not apply to human beings alone. All living things, including animals, birds, fish, and even insects can attain buddhahood. This way of thinking is different from the worldview of monotheism, which draws a sharp line between man and God. Japanese Buddhism teaches that in essence even the mountains and streams, the plants and trees, share in this buddhahood. In the ancient spirituality indigenous to Japan, even inanimate things such as the mountains, streams, wind, or stones were worshipped as gods. This belief was absorbed into Buddhism, and given a Buddhist doctrinal foundation. Modern thought has developed on the basis of egocentrism, and in making a clear distinction between subject and object. The objectification of phenomena is the foundation that permitted the development of modern science and technology. It has become quite common, under those circumstances, to ignore the interconnections between the self and the other, between the physical and spiritual, and between man and nature, and to see them as somehow independent of each other. However, the most recent findings of research in the humanities and natural sciences suggest that there is no subject completely independent of objects. It has become difficult to conceive of matter and mind as two utterly separate things. We have controlled the plants and animals and acted as if we had the right to take advantage of them for our own benefit. Yet, we have now come to the point where we can no longer ignore the reciprocal relationship that exists among all living things, and their interconnected and complementary nature. Japanese Buddhism sees phenomena commonly considered to exist in opposition to each other—subject and object, the individual and the whole, or matter and mind—to be fundamentally in a harmonious state of identity. Through dividing and subdividing phenomena for the purpose of analysis, we lose sight of that fundamental state. If we abandon the habit of treating things as being mutually opposed, and instead embrace a holistic approach, the true nature of these phenomena will manifest. Buddhism asks us to change our point of view 180°. It asks us to change our view from the modern one of the self in opposition to other phenomena to a universalist frame of reference that sees the world as an interrelated whole. The analytical way of thinking and the dualistic approach to matter and mind has supported the advance of science and technology. It has also exposed many stress points in modern society. An emphasis on the interdependence of all living things—the vision of life taught in Japanese Buddhism—may provide effective suggestions for handling such pressing issues of modern society as human alienation and environmental destruction. 2. A pluralistic sense of values It is an incontrovertible fact that the foundation of the extraordinary advances in modern science and technology owes much to a normative set of values. However, the inconsistencies of human society brought together under such normative values became clear during the latter half of the twentieth century. It was realized that the so-called developed civilizations do not alone possess absolute values, and that all the developing cultures everywhere in the world each have their own unique values. It may be said, in this consideration, that Eastern cultures such as those of India, China, or Japan have experienced a development based on pluralistic values. Since the time Buddhism was first brought to Japan at the beginning of the sixth century, the teachings of the Buddha have existed in harmony with the indigenous spirituality of the Japanese. There was no attempt by the Japanese people to eliminate either the teachings of Buddhism or the native Japanese beliefs. Rather, these two faiths in Japan have experienced a history of mutual influence and coexistence. One typically finds a shrine to the native Japanese gods and a Buddhist altar in the same home in Japan today, with prayers offered at both. The principle of coexistence through accepting and integrating different cultures and their values is concretely demonstrated within Japanese Buddhism through Buddhist mandalas. A mandala is a painting which gathers together the buddhas, the bodhisattvas in the process of becoming buddhas, and also the deities of Indian Brahmanism and the gods worshipped in Hinduism. Buddhist mandalas incorporate not a few non-Buddhist gods brought together to coexist in a perfectly orderly fashion. The well-known bodhisattvas of Mahayana Buddhism or the gods worshipped in Hindu culture are divided into several groups according to their characteristics and positioned in the mandala. The outstanding qualities of various gods, such as those possessing wisdom, compassion, courage, or the power to accomplish matters, and so on are recognized, and the gods are transformed into Buddhist deities with their original uniqueness intact. However, the individual characteristics of those gods are not completely retained. That is to say, individual characteristics may be divided into strengths and weaknesses. Buddhism passes their negative qualities by without criticism, and focuses only on their positive qualities, which are inversely connected to those weaknesses. Buddhism has the tolerance and broad-mindedness to incorporate them into the Buddhist pantheon as buddhas or bodhisattvas. There is no concept of exclusivism or rejectionism here. This is not a system based on a monistic set of values drawing distinctions between good and evil, or chaos and cosmos. There is no reverence for one but not the other. The fundamental stance of Eastern culture, which allows and recognizes a pluralism values, is discernible in the teachings of the mandalas. As outlined above, the worldview of Buddhism and the teachings of the mandalas undoubtedly can provide something of irreplaceable significance in the pursuit of intercultural dialog and a new guiding principle to live by in our modern society, abounding as it does in unending conflict and spiritual confusion. 3. Social service based on the awareness that our lives are owed to the world and society In the history of Buddhism in Japan, there are many examples of Buddhists who have made positive contributions to society. While too numerous to list here, social welfare activities to assist the poor began with the importation of Buddhism to Japan in the sixth century as a concrete manifestation of the teachings of Mahayana Buddhism calling for a devotion to the principle of universal liberation from suffering. These activities included public projects such as the construction of hospitals, pharmacies, bridges, reservoirs, and roads, the establishment of free lodgings, and activities to aid orphans. In the thirteenth century, Japanese Buddhist monks involved in restoring the lost Buddhist monastic precepts achieved considerable results in their proactive involvement with welfare activities to assist the poor. This spirit has been passed down to the modern Buddhist groups in Japan, which engage in various forms of social outreach in the context of actualizing the altruistic teachings of Mahayana Buddhism. Besides the Buddhist altruistic social activities engaged in by Buddhist monks or leaders, the ongoing tradition of providing aid to others without thought of recompense among the Japanese people deserves mention. The foundation of such activities lies in the unique Japanese understanding of wrongdoing. The sense of wrongdoing that the Japanese have had since ancient times is fundamentally different from the Christian concept of original sin. The Japanese believe that the very act of their existence places a burden on others and on society. This is manifested as their awareness of wrongdoing, which is a deep-seated element in the Japanese consciousness. It is believed that unless that wrongdoing is somehow expiated, disasters or misfortunes will befall that person. To expiate this wrongdoing, it is necessary to repent before the gods and buddhas, and to engage in positive activities benefitting others and society. Social participation based on the ancient Japanese way of expiating wrongdoing by working for the betterment of society in order to atone for one’s transgressions was called sazen, or engaging in positive or meritorious works. In the thirteenth century, the Buddhist holy men who preached devotion to Amitabha Buddha and traveled throughout Japan to accumulate the capital to build temples and shrines also, from a sense of atoning for wrongdoing, engaged in such charitable works as building bridges, opening roads, and digging wells. The monk Chozen, who contributed to the rebuilding of Todai-ji temple in Nara, wrote a work called Doing Good in the Name of Amitabha Buddha. In that text he advocated such meritorious activities as the construction of temples and stupas, building bridges, repairing roads, establishing public baths in addition to seeking to develop the faith of the people out of devotion to the Buddha. The simple fact of our living within modern society means that we contribute, to a greater or lesser degree, to the consumption of the limited resources of the world, the pollution of the atmosphere, and the destruction of the natural environment. We engage in such wrongdoing at the same time that our lives are supported by the world and society, and owed to them. The time has come for us to seriously consider, based on such an awareness, what we can do for society and how we can contribute to the preservation of the environment in return for its support of our lives. An awareness of the interconnections and the interdependence of all living things, the admittance of pluralistic values recognizing the precious worth of those not endowed by mainstream society, and social service based on the idea that our existence is owed to the world and society: I believe that these points are among the many that we in this age might learn from Buddhism.